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羽生選手 脳震盪後の危険性。ひとまず無事を祈る。

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 昨日、羽生選手のアクシデント後の演技に感動して”素晴らしい!”、”美しい!”と

いう記事を書きました。

率直な感想として、まさにその表現に後悔はないのだけれど、やはり心配なのはあの激しい衝突で受けたダメージであります。

今朝、この記事を読んでハっと気付き、色々と心配になりました。


羽生選手に「感動」するだけでよいのか? 誤ったスポーツ観が選手「生命」を奪う 脳震盪後、1日は安静に

 

YouTubeに早速そのアクシデントのシーンがアップされていたので何度か見返しました。


羽生結弦 中国選手と激突の瞬間!リンクに倒れこみ流血 - YouTube

 

やはりかなりのスピードでお互い衝突していて、なおかつ羽生選手は頭を激しくぶつけていることがわかる。確実に脳震盪を起こしていて地面にも顔をぶつけている。

 

演技の瞬間は本当に素晴らしく感動を呼ぶものであったことは間違いないけれど

かなりの危険をおかして演技をしたこと、その危険度という部分の知識が不足していたというのもあるし、

なにより

”あんなスゴい事故の後に素晴らしい演技をした”

そんな浅い見方しか出来なかった自分を残念に思いました。

 

”あんなに頭に強いダメージを受けて演技できるのか?”

”頭に強いダメージを受けて演技して生命は危険じゃないの?”

そこまでしっかり考慮できていなかった。

単純に

”リスクをおかして挑戦する姿”

”大きな事故を気合いで乗り越える姿”

これをただ美徳として表現してしまった自分がダサい、カッコ悪い。

と思いました。

もちろん演技した本人の意志は素晴らしいし、カッコ良いし、美しい。

 

でも、無理して演技することが今後の生命に危険を及ぼす可能性が高いものなら

ちょっと無理しないでほしいなあとやっぱり思う。

 

本人はきっとお客さんが感動してくれるなら危険を省みず喜んで演技するだろうし

リンクの上で死ねるなら本望とさえ思っているかもしれないけど、

でもそう思わせる彼のパーソナリティはやっぱり美しいな。

 

外から好き勝手物事をいうのは良いけど

やっぱり観る人のクオリティは大事。

 

今回、観る人ととしての自分の小ささを知りました。

 

もっと的確な視点で評価できないと物事の本質はつかめないなと

まだまだ甘いなと

 

勉強になりました。

 

なんかうまくまとまらなくて申し訳ないです。

 

今は羽生選手の生命の無事を祈りましょう。

 

でわでわ